母、倒れる。脳出血と重度のマヒ。

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2013年3月24日(日)深夜23時ごろ、実家にいる家族から母親の様子がおかしいと電話を受ける。

お昼の14時~15時頃に突然体調を崩し、伏せっていたが一向に回復せず。

そしてまるで寝ているかのように、声掛けにも反応しなくなってしまっている状況とのこと。

救急車を呼んだほうがよいだろうか?と、いつもの日常とは違う母親の状況に少し混乱している様子だった。

私は直ちに呼んだほうが良いとの胸騒ぎを覚え、

半ば怒鳴り声のように『早く救急車呼んでやれよ!』と叫んでいた。

家族は『ごめん、ごめん、すぐ呼ぶ。』と言って電話を切った。

これが事の始まりだった。

(以下、長文となりますので、お時間とお気持ちに余裕のある時にお読みくだされば幸いです。)


非日常的且つ突発的な状況は人を大きく不安にさせる。

私自身も大きく混乱していた。

救急車に乗り込んだら連絡をもらえるはずだったが、一向に連絡がない。

痺れを切らせて連絡すると、救急隊が到着し、搬送先の病院を探しているとのことだった。

救急隊の話では、おそらく脳に関する症状が発生し、あまりよろしい状況ではないということを告げられたとのこと。

現場対応に集中するため、数十秒ほどで電話を遮断された。

電話を切るとすぐさま『脳の障害』が頭をよぎった。

脳卒中、脳梗塞、、、脳か、、、時間が勝負だ。

脳組織は再生不可能。不可逆。言語障害、運動障害。そして、死。

私の記憶にある、脳の非常時に関するキーワードが頭を駆け巡った。

それと同時に、大丈夫だよな、大げさなんだよ、きっと大丈夫、大丈夫でいてくれ。。。

平静を装いつつも、心の中では不安と現状を自らの眼で確認できないが故の”曖昧な不確定さ”への苛立ちが渦を巻いていた。

これら一連の流れの時間は20分~30分くらいだっただろうか。

ようやく兄から連絡が入り、搬送先の病院名を告げられた。

母が救急搬送された病院は、千葉脳神経外科病院。

脳神経外科、という名前を聞いて、やはり脳に関する病気が発病してしまったのかという現実を受け入れることとなった。

もう深夜になっていたので、千葉脳神経外科病院まで辿り着ける交通機関は見込めなかった。

友人に連絡を取り、状況を説明すると、快く車で迎えに来てくれた。

友人の大切さが身に染みた。胸がいっぱいになった。(←今この文章書いてる途中も号泣中。)

病院に辿り着くと、救急車に同伴していた家族と再会することが出来た。

父親をはじめ家族は手続きに追われていた。

一様に、混乱と不安を共有していることは明らかだった。

発病までの流れを確認したところ、お昼の14時~15時頃に突然体調を崩し、突然台所で座り込んでしまったようだった。

その後自力で布団へ行き、寝ていたとのこと。

途中、足をさするなどをしながら、具合悪そうに寝ていたとのこと。

大丈夫か?救急車呼ぼうか?との声掛けには、声を発することなく手をいらないいらないのようにジェスチャーしていたという。

もともと実家があまり裕福ではないのもあって、費用のことを考えあまり大層なことをしたくないという本人の考えと、病院にかかりたくないという気持ちもわかるので様子を見ていたようだった。

数年前、足首の複雑骨折をしてしまっていて、その足をさすっていることから、足の痛みが出てしまったと、家族は解釈していたようだった。

夜になって再び声をかけると、返事がないことに違和感を覚えたそうだ。

よくよく布団を見てみると、どうやら失禁していることが判明した。

ここまで来ると、あまりにおかしい症状ということで、私に連絡を入れ、救急車を呼んだとのこと。

母と一緒に病院へ駆けつけた家族は、医師との簡易面談で説明を受けたそうだった。

母は脳出血を起こし、現在、救急処置をしているとのことだった。命は現在のところ大丈夫とのこと。

発病から現在までの経過の家族の話と、担当医からの病名や病気の原因などを話し、数十分後、看護婦を統括しているような方との面談になった。

母親は脳出血で、発病から治療処置が始まるまで、約9時間も経過してしまっていること、

そして、医師や看護師の呼びかけなどの、母親との対応を加味した結果、重度のマヒは免れないかもしれないとの話を聞いた。

現在は集中治療室(ICU)というところで治療を受けていて、治療内容としては、

脳の出血している箇所の血の流出を止める薬物治療と、脳に溜まっている血を無くす薬物治療が行われているとのこと。

どんどん血液が流出してしまうと、それに伴って脳へのダメージも大きくなっていくので、

それを防ぐための治療が行われていることを告げられました。

これらの初期治療は2週間くらいで落ち着き、この期間を急性期期間というとのこと。

千葉脳神経外科病院では、まず、傷の治療をメインに考え治療してゆく目的の医療機関とのこと。

1週間くらいで症状が安定してくるので、安定が確認された場合は注意深く即、リハビリを開始していくこと。

この急性期のリハビリが重要なので、母の状態を確認しながらリハビリを開始することを告げられました。

しかし、数多くの脳疾患に関する患者さんを見てきた経験即で話すと、

重度のマヒが残る可能性が高く、その点は覚悟してくださいと告げられました。

脳のMRI画像的にも、症状的にも左半身マヒは顕著で、

その他、現在のところでは呼びかけにも応えられず、話すこともできないので、

話せなくて話せないのか、そもそもこちらの言葉を理解していなくて話せないのもわからないとのこと。

失語症等の障害も残るかもしれないので覚悟してくださいとのこと。

もちろん、リハビリによってどこまで回復するかはわからないが、

一度失った脳機能は戻ることはないので、昔と同じ生活になることはないこと。

それをカバーする生活方法をリハビリなどで獲得するといったことになること。

おそらく、自宅に帰るのは難しいとのことを覚悟したほうがよいと告げられました。

私自身、現実を受け止めるも、どこか他人事のような感覚。

いや、他人事ではないのは明らかだが、突然マヒになるから覚悟しなければいけないと告げられ、

マヒを抱えた母親の顔やしぐさ、退院後の?生活などの未来像やビジョンが、パッと浮かぶものではない。

母親は今年で71歳。ついに、こういう状態になってしまう時が来てしまったのかという想い。

母の状態や治療の状況説明などをしてくれた看護師(女性)の方。

この看護師さんも親御さんが脳の病で現在介護を受け寝たきりになっているとの話を聞きました。

説明自体は理路整然としており、口調は私たちを落ち着かせるような穏やかさの中にも、凛とした感じで説明をくださいました。

看護師さんごご本人も親御さんがマヒで抱えてるということで、この先本人や家族に起こる現実理解していること、

そして今の私たちのように、家族の不安や動揺なども体験し理解していること、

すべて理解しているうえでの看護師としての職務遂行と、患者家族の気持ちを理解しているが故の情や労りなどを感じました。

明日12時より(日が明けているので数時間後)医師による説明と、

今後のことを考慮してケースワーカーさんとの相談の時間のアポを頂きました。

時計は午前2時半を回っていました。

説明が終わった後、母親との面会となりました。

医療機器に囲まれ、目をつぶっている母親。

右の足は動かず、顔、首、左手、右足をバタつかせていました。

髪もぼさぼさ。

不思議なものですよね。

自宅で寝ている姿を見ても、多少の加齢による老いは感じることもありますが、別段気になることはありません。

病院のベットに伏せってる姿を見ると、あまりにも弱弱しく。。。言葉になりません。

『おっかぁー!』と呼びかけると、一瞬目が開き、すぐまた眼を閉じます。

『おっかぁー!』と呼びかけると、一瞬目が開き、何か喋りたいのか口をもごもごしています。呂律が回っていません。

まだ集中治療室に入って数時間。少しでも早く回復するのを祈るばかりです。

集中治療室(ICU)を後にして、病院1階の待合室へ。

明日の面談のこと、近々の今後についてなど少し家族と話し合いました。

その後、病院の階段の明かりだけが灯る、薄暗い待合室のソファーに横になり、

バックを枕にして横になりました。

確か、過去にとても焦った出来事が、実は夢ということに気づいて、ホッとしたという体験があったな。

今回の母親が倒れて、もしかしたら寝たきりのような状態になってしまうなんて、

これも実は夢じゃないか?と自分に問いかけましたが、夢ではありませんでした。

病院としては1階の待合室で、朝まで待機していいとの許可を頂きましたが、

荷物や準備しておきたいものもあるということで、帰宅することにしました。

タクシーを呼んでくださるということですが、お金がかるので、最寄りの駅まで徒歩で行くことに。

千葉脳神経外科病院から最寄り駅とされているJR稲毛駅まで、

Google Map では1時間8分との計算に。

結局1時間半ほど歩いて駅に到着し、家族と別れ、幕張に戻ってきました。

とにかく、ここ数時間で多くの情報が入りこんでは処理を迫られ、混乱の連続。

家に戻ると服を脱ぎ捨てて、すぐ布団へバッタリ。

そして溜めにため込んでいた涙を一気に流しました。

うへっうへっ、うひうひ、何にも縛られず、涙を流しました。

そして又不思議なことに、泣きながら笑いました。

自分も相当精神的に疲れているなと、自覚しなければいけないと感じると同時に、

人間の精神の危うさのようなものに恐怖さへ覚えました。

ほんの数時間休息をして、会社に欠勤の連絡。

そして医師の説明を聞く為、千葉脳神経外科病院へと行きました。

3月25日(月)です。

担当医からは、今回脳出血し血が溜まった部位は、視床部というところで、

運動や言語を司る脳の連絡として重要な個所に脳出血が発生し、

そのため、この周辺にある脳器官がダメージを受けてしまったとの説明を受けました。

看護師さんと同じく、重度のマヒが考えられるのと同時に、言語障害も化される可能性が大きく、

言葉をしゃべれないような状態になってしまうかもしれないとの説明を受けました。

どんな説明を受けても今まで病院内では涙を流しませんでしたが、

担当医へ質問を伺っている途中、初めて涙をしました。

担当医への質問の際は涙が止まらず、流れていた時間が止まってしまいました。

私たちからすると、医師という専門家からの宣告は、最終宣告に等しい。

負の現実ほど残酷で空しいものはありません。

唯一の救いは、運動や言語を司る脳そのもののは侵されていないとのこと。

医学は神ではないので何とも言えないが、治らないとも限らない。との言葉でした。

そして自分に言い聞かせました。

そうだ。医学は日進月歩。今日の医学の最先端は人間が辿り着いた現時点でしかない。と。

そして母の病気の症状を担当医から受けたあとは、

今後の病院の移転や介護施設などの面を話すため、

ケースワーカーさんとの打ち合わせをはじめました。

病気を嘆いているばかりでは、現実世界は許されません。

入院をするにも介護施設に入るにも、お金が必要です。

母親の病状の話を聞いた後は、今度は、お金など費用や金銭面等の話し合いが始まります。

お金がなければ、常に弱者になるのだと、改めて感じるのと同時に、

そんなこと考えている暇はない。お金を考えなければと引き締まる心持になりました。

ケースワーカーさんとの打ち合わせを終えた後、

集中治療室(ICU)で治療している母親へ面会。

もちろん、昨日(数時間前)と変わりなく、弱弱しい姿がそこにはありました。

専門医師からの説明を聞き終えた後の面会。

母や家族を後ろにするように振り返り、見えないところで涙し、こらえ、嗚咽する家族。

それを目の前に私も母から目をそむけ、また涙。

病院を後にして家族と別れ、帰宅。

家に帰ると、今度は、脳出血のことや急性期のこと、

脳出血後のリハビリについてや、まさにご家族様が脳出血などにかかってしまい、

脳出血とリハビリの闘病を綴っているブログなどを貪るように見ました。

私たち家族と同じように、不安や混乱を乗り越えながら、

今もな闘病をなさっている方や、そのご家族の存在を知ることで、

とっても救われたような気がしました。

自分がへこたれても仕方がない。

自分がへこたれたら、母親を病院にやることさえ難しくなってしまうのだ。

日常をいつも通りに生き抜き、日常を混乱させることなく前を見て歩く。

その大切さを心に留め、生活や心を日常に取り戻すべく自分自身に言い聞かせました。

3月26日(火)。いつも通り会社へ出勤しました。

業務をこなし、いつもの外の空気が吸える会社のベランダで休憩を取っていると、

やはり母親のことが脳裏に浮かんでしまいます。

丁度発病の1週間前。

私は千葉県知事選挙の為、実家に行き、投票をしてきました。

その時の母親の様子。いつも通りの笑顔やしぐさ。

そして、食べきれないほどの絶対食費オーバー気味のおかずに囲まれた食卓。

母親の手創りの料理。おかわりのお願い。醤油とってのお願い。

わずか一週間前はあんなに元気で、『変わりないよ』と言っていた母親が、

今現在は、病院の集中治療室にいるという現実。

そして生涯にわたって障害を抱えてしまうかもしれないという現実が心を襲ってきました。

母親が一番大事な時に、なぜ俺はここへいるのだろうか?

1番にまずは母親のもとへ出向き、そばにいてあげるこそことがいいのではないだろうか。

数日くらい働かなくてもいいくらいの金銭的余裕を持ち合わせてないことへの自分への憤り。

そんな思いがこみ上げてきて涙を流してしまいました。

そしてすぐさま涙をふき、業務へ戻ります。

平然を装っていても、心の中はまだまだ動揺に満たされているのは自分でもわかっていました。

平日は家族が病院へと面会に行きました。

電車を乗り継ぎ、バスを乗り継ぐなど、時間も体力も交通費もかかってしまいます。

この急性期の2週間の土日は私の担当。

仕事を放るわけにはいかないので、家族に任せて、土日まで我慢しよう。

平日はいつも通り仕事を頑張って稼いで、土日に母に会いに行こう。

会社の方達にも温かい言葉や、励ましの言葉などを頂き、土日を迎えました。

3月30日(土)・3月31日(日)と病院へ向かいました。

幸いにも集中治療室を出て、一般病棟に移ったとのこと。

久々の母との対面。

両方の鼻にはそれぞれ違ったチューブが付いており、

手には、そのチューブを外さないための手袋を着けていました。

母のベットに赴き、母の顔を覗くと、ぐっすり寝ていました。

睡眠を摂り、体は一生懸命回復に向けて働いているのだなと思ったので、声をかけることができませんでした。

寝ている姿は、病院に来る前の母と大して変わらない感じです。

早く母と話がしたい。母に僕が目の前にいることを伝えたい。早く母に触れたい。

それらをじっと我慢しながら、母の寝ている姿を40分ほど見つめていました。

母が寝返りを打った瞬間、ようやく母と話せるタイミングが来ました。

『来たぞ!』

そう私が言うと、少し目を見開いて、何事かと確認する母親。

その瞬間、母親が手を伸ばして僕を迎えてくれました。

何か言葉を伝えていますが、注意深く聞いても言語障害が残っているため上手く聞き取れません。

母の眼には涙がありました。

それからは、いつも通りの親子のふれあいです。

聞き取り辛い言葉ですが、要所要所に聞き取れる単語やフレーズがあります。

ほんの少しだけでも会話のやり取りが出来ると、本当に嬉しくて嬉しくて。

母との会話、意思の疎通が出来ただけでも、本当に嬉しかったです。

母は気丈にふるまっているようにも見えました。

マヒを免れた、左手や左足を動かし、元気さをアピールしているようでした。

しかし、目は細く開けるのが精いっぱいのような感じです。

鼻にチューブなどがあるため、通常の呼吸や会話もし辛そうな感じでした。

救急車で病院に搬送された時は、

もう言葉がわからないかもしれない、話すことが出来ないかもしれないということでしたが、

単語だけでも、お互いの意思疎通が、会話が出来ただけでも希望の光でした。

顔はひきつってしまっていますが、久々に母の笑う姿も見ることが出来ました。

笑う声も聞こえました。何かを歌う母の姿歌声?も少し聞くことが出来ました。

しかししばらくすると疲れたのか、すぐ眠たいしぐさを見せ、眠りました。

少しの会話や、短い時間の肌を触れ合わせたコミュニケーションでしたが、

まだまだ、母の脳は疲れが激しく、休息が必要なのかもしれません。

1時間弱ほど会話やコミュニケーション、睡眠などを重ねました。

3月30日(土)・3月31日(日)はこのような面会となりました。

母親は、やはり早く家に帰りたいようなことを言っていました。

つい先日までは普通の生活。

今はベットで治療を受け、不自由なうえ、下の世話などを介護の方にして頂いている状態です。

母親のこの気持ちは痛いほどわかります。

しかし、今後更に続くであろうという厳しい未来に対して認識している私たちには、

とても心の痛むような母の懇願でした。

現状の状態から、どこまで回復することが出来るのか。

それは神と、母親自身のリハビリにかかっています。

右半身の重度のマヒは免れず、現在の時点での未来の予測では、

おおよそ介助者がいなければ生活は送れない、という厳しい見立ては変わりがないようです。

私としては、家族としては、母親にとって最良の道を作ってあげることしかできません。

また、最良の道を進めさせてあげるだけのものを提供しなければならないということで一致しています。

金銭面や生活面においても、おそらく、今まで通りの生活とはいかないことが容易に想像できます。

その為、私個人においては、放送大学を一時離れなければいけないかもしれません。

放送大学を休学・退学する確率のほうが高いかと思います。

正直、今はそれどころじゃなく、放送大学について頭が回っていない状態です。

同時に、心の奥には、放送大学で学ぶということ自体が出来なくなってしまう恐怖が目をそむけているのかもしれません。

現在のところ、放送大学との今後は未定です。

今回のこの記事を書くに至った動因は、

私の心に溜まった感情をを吐き出す為の記事なのだろうと思います。

突然起こった衝撃を冷静に受け止める助けを欲していたのだろうと思います。

それがこの記事かもしれません。自分でもよくわかりません。

ただ、記事を書く際に、意思・意図としてあった、記事を書くもう一つの理由は、やはり共有・シェアです。

脳出血に関する、或る家族のほんの一つのお話。

こういう出来事があって、こう思った。

色々あるけど、前向いて頑張っていこうと思っているよと。

想いや考えを共有・シェアして、

脳出血に関して情報を探している方はもちろん、そうじゃなくたっていいんです。

誰かに、少しでも何か役に立てばいいなと思うのです。

それが幸いにして叶うならば、まさに、救われたというのと同義です。

個人的に、私の好きな言葉は『希望』です。

『希望』さえあれば、現実はどうであろうと未来と生きることが出来ます。

放送大学で学んだこと、今現在放送大学で学んでいることを少しでも生かして、

前向きに生きていこうと思っています。

Facebookなどでは『いいね!』が押し辛いという方もいらっしゃるかもしれませんが、

是非、『いいね!』をください!(笑)

『いいね!』があって初めて『あ、少しでも目を通してくれたんだな~』という、励みになります(笑)

寒かったり、暖かくなったり、気温の変化の多い春先ですが、

皆様におかれましては、風邪などひかぬように、ご自愛くださいね。

そして、いよいよ放送大学新学期スタートです!

共に、頑張って&楽しんで参りましょう!

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4 件のコメント

  • 疲れた時は休んで下さい。
    泣きたい時は泣いて下さい。
    辛い時は辛いと言って下さい。
    お母様の回復を心からお祈りしております。

  • お母様のご回復を心よりお祈り申し上げます。
    ご家族の皆様と力を合わせて、後悔のない日々をお過ごしください。
    私も、理由は違いますが人生の転機のため今学期は放送大学より離れることを選びました。
    今を乗り切り、次学期から復帰する事を目標に頑張っております。
    またこの場で記事を拝見できる日に向けて、『希望』を胸に歩んでまいります。
    緊張が解けた時の体調が大事です。
    どうぞご自愛くださいませ。

  • おにぎりさん
    コメントありがとうございます。
    おにぎりさんの言う通り、今は自分自身の中でも、感情を少し解放してあげて毎日を過ごしています。
    現実を受け止めながらも希望を持ち、頑張っていきたいと思います。
    コメントありがとうございました!

  • Kさん
    コメントありがとうございます。
    様々な生き方がある中で、いつでも学べる場として放送大学はきっといつまでもそこにあってくれるのかもしれませんね。
    現在のところでは、このまま少しでも放送大学を続けるのか、はたまた、休学をするのか、そして退学をするのかは見当すら付きませんが、放送大学で学べることや、放送大学にかかわっている方との交流から得ることも沢山あるので、出来れば放送大学は傍にいてほしいと思っています。
    私も、母親の回復や放送大学で学びたいという『希望』を胸に頑張りたいと思います。
    コメントありがとうございました!

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